鍋島直正公 銅像再建

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10代 佐賀藩主鍋島直正公

鍋島直正肖像写真_安政6年_公益財団法人鍋島報效会所蔵

鍋島直正肖像写真(安政6年)
(公益財団法人鍋島報效会[徴古館]所蔵)

文化11年(1814)、江戸桜田の佐賀藩邸で誕生した鍋島直正公は、文政13年(1830)に17歳で10代佐賀藩主となりました。その年、初めて佐賀に入部した直正公は、「領民が安堵する時代の、いち早い到来」を願って倹約令を実施するなど早くも改革に取り組みます。それ以降、48歳で隠居するまでの約30年間、財政の立て直しや弘道館教育での人材育成、科学技術革新による軍事力の増強など、佐賀藩の新規事業を積極的に推進し、佐賀藩歴代藩主の中でも稀代の名君として知られています。

また直正公は、佐賀城本丸の復興や城下の修復にも心力を注ぎ、川上(佐賀市大和町)の景色を好み、神野に御茶屋(別荘)を造営するなど、佐賀城を中心に城下や郊外に広がるこの佐賀の土地をこよなく愛した殿様でした。

【写真】鍋島直正肖像写真
現存する中で、薩摩藩主島津斉彬のものに次いで2番目に古い藩主の肖像写真。佐賀藩は長崎整備充実などのため洋書の翻訳や大砲鋳造・蒸気船建造を行い科学技術の向上につとめましたが、直正公が設置した理化学研究所の精煉方では、写真技術の研究も行われていました。
直正公は、嘉永7年(1854)に長崎台場増強を幕府から賞され、翌安政2年には精煉方で蒸気車・蒸気船の雛形製作に着手。安政5年(1858)に初めての蒸気船「電流丸」をオランダから購入し、三重津に船手稽古所を設置、また医学寮(好生館)を片田江に移転しています。直正公が40代前半を過ごした安政年間は、直正公率いる佐賀藩が先進的な事業を次々と展開した時期でした。眼光から気魄の横溢するこの肖像写真は、佐賀藩医の川﨑道民により安政6年(1859)に撮影されたものです。

100年前の銅像建設

生誕100年にあたる大正2年(1913)、その風姿を未来永劫に知らしめ欽慕の念を仰がせんがため、大隈重信を委員長とする建設委員会が組織され、県内外からの寄附金によって銅像が佐賀市松原に建設されました。銅像の台座には三重津で造船された蒸気船、反射炉、長崎台場や種痘などがレリーフに彫り表され、直正公は先進的な事業を展開した幕末佐賀藩の象徴として郷土佐賀を見守ることとなりました。しかしわずか30年を経た昭和19年、第二次世界大戦に伴う金属回収令により供出され、直正公は「出征」しました。

閑叟公銅像と佐賀図書館

銅像園(閑叟公銅像と佐賀図書館) 大正年間撮影 (公益財団法人鍋島報效会[徴古館]所蔵)

200年目の銅像再建

早稲田大学大学史資料センター所蔵

鍋島直正公銅像原型と関係者
(早稲田大学大学史資料センター所蔵)

直正公は佐賀の地をこよなく愛した殿様で、現代の私たちに様々な遺産をのこしました。直正公が別邸として城下郊外に造営した神野御茶屋は大正12年に佐賀市に寄附され、今なお神野公園として親しまれています。佐賀城の数少ない遺構として現存する鯱の門(国重要文化財)は直正公の時代に建設されたもので、平成14年には直正公の時代の本丸御殿を復元した県立佐賀城本丸歴史館が開館しました。そして平成29年春の完成を目標に、その功績を末永く顕彰するため、銅像を県立佐賀城公園に再建することとなりました。

平成26年(2014)は直正公の生誕から200年、大正の銅像建設から100年にあたります。これを機に、平成26年7月1日から平成27年6月30日までの1年間、鍋島直正公の銅像再建に向けて広く募金活動を行っています。

※募金活動についての詳しい説明は、募金趣意書募金についてをご覧ください。

【写真】鍋島直正公銅像原型と関係者
鋳造前の銅像原型を前に関係者が並ぶ貴重な写真。中央に座す2人の女性は、直正公の娘の松平慈貞院(向かって右)と池田幸子。右端に建設委員長の大隈重信、左奥は原型を制作した彫刻家の武石弘三郎。

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